昭和42年8月23日 月次祭の御理解
日中厳しい暑さが続いておりま。けれども、何とはなしにもう秋の気配が感じられます。昼はほうし蝉が鳴いております。夜ともなるとああして庭の隅で虫がすばいております。秋だなあと思います。もう暫く致しておりましたら、いよいよ涼しくなって参りましょうと言いよると、寒い寒いという冬が参ります。天地の、自然の働きと云うもの、さあ暑いのをいっぺんに寒くということも出来ませんに致しましても、そこんところを実に巧妙なまでに神様のお働きを感じます。四季折々の中にそれを感じますように私共の上にも同じ事が言えます。何と云うてもどんなに科学が発達致しましても、ある言葉で申しますとね、自然を征服すると言ったようなことを申しますけれども、とてもとてもそれはもう、神様の働きを征服するということは出来ません。
どんなに人間が何千年先になりましても自然を征服するということは出来ないことを私は感じ、思います。そういう偉大な力、働きと、その働きに従順に素直にそれに合流して行く、自然の心を心として、いわゆる神様の心を心としてと云うのは、私はそういう事だと思うのです。お互いの持っておる様々な問題でも、それは時節を待てば必ずおかげになる。その時節を待ちきらんところにそれがおかげになって行かない。いわゆる、中途半端に終って仕舞う。時節に任せると云う心、任せるところにやはり力が要る。簡単なようでもあるけれども、なかなかではない。いらいらしてくる。もう任せられない、不安になってくる。もう任せられない。いよいよ心配が募ってくる。もうじっとしてはおられないということ、ね。 私どもはそういう私はその信心のない者がいらいらし、心配になっておっても、不安になっておっても信心させて頂く者はそこんところを判らせて貰い、かく信心させて貰うてその自然の働きにゆだねる。ゆだねると云うことは、それは力の要ることで、勿論それは神様の働きを信ずる力である。信ずる力の無いところに慌てふたきしなければならん、ね。その為にはどういうような信心をさせて頂いたら、その力を頂けれるか、そこんところを何時も思ってみなければいけない、ね。そこでその自然に任せておくと云うか、勿論それはすがって任せると申しますけれども、すがると云うことは、それを辛抱する力を頂く為のおすがりなのです。その力らが出来れば、そこを有難く任せて頂くことが出来る。ばたばたせんで神様の御都合を待つことが出来る。そこんところを私共は何時も頼りないことばかりで、もうちょっと待てばよいのに、八十位、百のものであるならば八十までは待ったけれど、九十迄は任したけれども、あと十のところで落第するというわけではないでしょうけれども、そこんところを自分の力でやって行こうとする。自分の焦り心でそこんところをやろうとする。そこんところをやっぱりおしばなれてゆけば行く程おかげはあか抜けしたおかげになって行く。けれどもまくそのものを任せて行く、おかげを頂いて行くと云う信心。教祖の神様は信心はみやすいものじゃが氏子から難しゅうすると仰せられますけれども、任せると云うことは実にみやすい。こげんみやすいことはないではな。けど任せきらんところに難しさがある、ね、いよいよ任せる力と、その力と云うのは神様を勿論信じなければ任せられない。もう身も心もあなたに捧げますなんて、本当にその人を信じなければ身も心も捧げられないでしょう。自分のいわば軽はずみに一生なら一生を台無しにして仕舞うようなことがある。 ほんとに信じられた時にこの人ならばと信じられた時に身も心も捧げるのであって、やはり神様とても同じ事。ところが神様があまりにも偉大であり大きいのですから、私共が場合によると雲を掴むような、小さいことなら任せられるけれども、いよいよ大きな事になってくると任せられない。
神様がござるやらござらんやら疑うような事になってくる。ね、そここでいよいよ神様の確信と云うかね、神様のお働きを信じきらせて貰えれるおかげを頂かなければならぬ。必ず春が來れば夏が、夏が來れば秋が冬が訪れて参りますように、絶対のものなの、その絶対のものであるという神様をひとつ頂きたいと思う。
絶対のものを頂けないところに起こって來るものが迷いである。勿論それは不安もある。心配もある。同時にいらいらもあるのでございます。そこで云うならば神様を本当に信じさせて貰えれる信心をしなければいけません。それはお取次を頂いていろいろ奇跡的なおかげを頂きますと、神様ちゃあ本当に有難いことであると云うように思いますけれども次に今度自分の思うことが成就しないと、あん時はふがよかったのだろうとなってくる。
神様を信じきれない。だからそういう私共が云うおかげと云うものを対象としてから神様を信じさせて貰うと云うことはなかなか出来ない、難しい。だからいよいよ根本的なところ根本的なものを、頂かにゃあいけん。
二、三日前から昨日一昨日か「神は吾が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞや」と云う御教えを頂いておる。私は思わせて貰うんですけれども、金光様の御信心はですね、ここんところを本当に分かることだと思う。神は吾が本体の親であることが分かる。同時に信心は親に孝行するも同じ心で信心させて貰う。様々な過程があるんですよ。そこんところが私は分かって信心しておる人は椛目にはざらにはない。そこの近所までぐらいは行っておる。もうそうだなと感じてはおる。けれどもなかなかそこ迄はいかんのです。
皆さんも御承知のように、ここで高芝さんと云やあ総代さん、まあ総代さんのような立場におられます。奥さんもここの信心を一番初めから頂いております。ですけれども、例えば高芝さんですらそこんところがまだ分かっていないのじゃあないかと私は思う。
と云うことは、もう高芝さん一家みんながそうだと云うことになるわけです。この頃からお母さんが東京に行っておりました。成程うちには自分がお母さん代わりをしなければならん。子供達も面倒を見なければならんから、そんなこと云うなら尚お願いしてお参りして來んならんのだけれど、それはとにかくやはり忙しい。お参りする暇がない。お参りがない。二、三日前ですした。お母さんが東京から丁度大祭の夜にこちらへ着きました。それでもうそれこそ、東京から直行して、あちらを発った時にも電報が参りました。御本部からも参りました。本当に残念で御大祭を拝めないのが残念だ。御本部から母子で参拝をさせて頂いて有難かった。今から発たせて貰うと、今夜七時か八時頃そちらに着くからと云うて電報が来た。帰りもやっぱりここへ直行して来た。もうへとへとの様なと思っていたら、ところが案外元気で親子共々帰って来た。その翌日お母さんが出て参りましてから、お届をされる。皆さん高芝さん夫婦のこと話しておるのだけれども、皆さんも聞き出さんといかんのですよ。右代表で話すんです。はあ、高芝さんなそん位な信心しかでけておらんばいな、ちゅうならどんこんされん。東京に参りました。ところがたまたまその子供さんがあちらで下宿して仕事をまあおかげ頂いておりますが、その子供さんの家に一つの事件が起こった。問題が起こった。お母さん考えた。私が來る時にこういう問題が起こると云うことも、こりゃあ、たかしさん考えてみる程神様の御都合ばい、お繰合わせばいと親子で話させて頂いた。それこそ、言いたいこともあったけれども、私はそのへんが有難い。四神様が仰るようにみなまで言うなと仰るよう、皆さんここんにきが有難いですね信心は。もう本当に夢にもそれこそ、寝耳に水と云うようなことを聞く。だからたかしさんの場合は聞いてみるとそんなことはないと言う。勿論そうではなかった証拠に、先日向こうから電話が掛かってまいりまして、大変な間違いであって一部の人達のねたみ、そねみと云ったようなことから、云うなら陥れられたと云ったような感じ。だから、どうぞすぐ東京にそのままにと云うことだった。けれども、こちらに帰って来ておったことが分かったから、こちらへ電話が掛かってきてすぐ帰って復職して呉れと云って電話が掛かって参りましたけれどもこちらは、もうそれをおかげだと頂いておりますから、とても帰って来いというても帰って来んのだから、こういう問題が起こったからおかげで帰ってきたのだと思っておる。事実そうなんだ。そのへんのところの信心の頂方、さすがに日頃の信心だと思うのです。東京から帰って翌日ここへお母さんが来てお届けするお届けを聞かせて頂いてから思うのです。
もう一歩、もう一歩前進しなければ、お母さん達は本当に有難いとお届けをしているのだけれども、私としてはそこんところをもう一押しとこう思うておるのである。
高芝さんの信心を何時もそう感ずる。もう一押しというところの信心、それが何故出来ぬのか、分かっておって出来んのか。それは例えば五体が云うことを聞かんと云うこともありましょう。けれも本当のことが分かっておって、分かっていないのだ。神は吾が本体の親ぞ、信心は親に、神は吾が本体の親ぞ分かまで分かっておっても、信心は親に孝行するも同じことぞと云うところにきが分かっておらんと云ったような感じなのねえ、このあたりの信心が一つ分からなければいけない。
「神は吾が本体の親ぞ」とまでは、云うなれば高芝さんは分かっておられるとして、そうであるから信心と云うものはそこから先が信心なんです。信心は親に孝行するも同じことと云う信心が、それからなされて行かなければね、ならんのです。
先生もうおかげを頂きましてから、本当にぎりぎりにお繰合わせを頂きました、ところがです、たかしさんの顔でと申しましょうかねえ、飛行機の切符がただで差し上げると云う人があった。たかしさん、お母さん切符が手に入るからあんた切符で飛行機で帰んなさい。大祭に間に合うじゃあない」ところがそこが親心なんです。たかしさんそれもそうだけれどね、あんたが一人で例えば東京から田主丸まで帰って來る。長い道のりを、帰って來る。それは親として忍びない。あんたが乗せんち云うたってお母さんあんたの車にぶら下がってもあんたと一緒に帰るよ。たかしさん喜んだ。それはそうです。親が思うてくれるのですから、と云ったようなことでおかげ頂きましたというお届けであった。それで立派である。けれども、今日私が皆さんに分かって貰おうとする信心から云うと、私がそれはまだ時期じゃあないと思ったから、おかげ頂いたねと、そこが親心じゃんね、お届けさせて頂いたのですけれども、それまではそうなの、けれども高芝さん、これから先はもう一歩前進しておかげを頂いて行く、「神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」と云うところが分かって來る信心を頂いたらいよいよ有難いんだと云うことなのだ。たかしさん本当にあんたの人情から云うならね、あんたの車にも乗ってぶら下がっても、乗って行こうと思うと。けれども、十六日は初めての合楽に仕える夏の祈願祭がある。
お父さんは総代として私は婦人会の幹部として、せめて御用の少しぐらいでもさして貰いたい、御大祭を頂きたい。だからあんたのことは神様にしっかりお願いさして頂くとくけん、途中で御本部にお参りしていらっしゃいよ。金光様にお願いしておいでよ。お母さんもお願いしてお母さん一足先に飛行機で発たせて貰うから、あんたのことはお願いよ。気に掛かるけどあんたのことは神様にお願いしておくから、お母さん一足先に発たせて頂くと言うて飛行機で発って来とったら前日に着いただろう。御用も出来ただろう。御大祭も拝めただろうと云うことになるんじゃあないでしょうか。そこんところがです、形だけでは椛目では本当に不思議に皆さん出来ておられますねえ。御大祭ともなれば、店を閉めてから皆が進んで、いわゆる神様をいかにも中心の様にしてなら御大祭なら御大祭に参拝が出来たからと云って、なら神はいわゆる「信心は親に孝行するも同じことぞや」ということが分かってからお参りしているのじゃあない。ここんところを背水の陣と申しましょうか、人間の様々な問題がある。ここに神の問題もある。いうなら御大祭もあるけれども、こういう事情もある。神様が御承知であるからそれを無理にどうのこうのと仰る筈がないのだけれどもです、と云うてこれをです、こんなこっちゃおかげ頂けんからお参りするのであったら、それはいかにも神様を中心にしてみんながお参りしているようであるけれども、それはおかげを頂かなければならんからそうしておるだけのこと、ね。
「神は吾が本体の親である、信心も親に孝行するも同じこと」である。孝行するも同じであると云うところをが分からせて頂いて、さあ今日はどういうどんな問題があってもそれは伏せとく。それはその侭まあまあとにかく御大祭を仕えてからのことだと云うように、親に孝行するも同じと云うところに信心が絞られて、あれも振り切りこれも捨てて神様を中心にいわば信心をさせて頂くことになると、それから本当のことが言える。私はそこんところの信心を頂いて欲しいと思うのである。
神様事だからそこんところの過程なの。だから一足飛びに出来る筈がないね。だけれども、そんなら高芝さんの信心をそれでも放っておいてよいかと云うとそうじゃあない。
私が例えば今日までそれをここで持ち越して来たと云うことは、おそらく高芝さん以下の人の信心の人がそうであろうと思うから、そういう人はもう一段とそこを信心を進めて行くと云うことは、神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことであると云うことが分かる為の信心をさせて頂かなければならないと云うことなのだ。私は金光様の御信心は今日は竹内先生達親子四人で参ってみえられた。
先生にそのことを申しました。先生、金光様の御信心ちゃ結論すると、「神は本体の親」であると云うことが分かると云うことですよ。ですから分かったら今度は「信心は親に孝行するも同じ」であると云うことが分かることですよ。この御教えを分からせて行く為にあらゆる御教えもありゃあ修行もあるのだ。ここが分かりゃあ絶対のものなんだ。誰が何と言っても降ろうが照ろうがみんなおかげである。それがおかげであることが分からにゃならん。親だもん、親が憎うして叩くはずがない、そうでしょうが、どんなにたとえ逆境に立たせて頂いてもです、神様がおれを憎たらしいから、こげな苦しい目に合わせなさると云う様な考えは起こらない。 「神が本体の親」であることが分かったら、それこそ親なればこそ、神なればこそこうして育てて下さるんであると云うことが分かってくるから、叩かれても痛かっても有難うございますが言えるような信心が出来る。忙しゅうなかったら尚参れ、例えばお店などたとえば商売が繁盛しないと云うならば尚お参りも一生懸命参らなければいけない。忙しゅうなったら又一段とお参れとこういう。そこんところをですね、私共がひとつ間違えんように頂かなければならん。そげんすりゃあ、おかげ頂くけんと云うたが暇じゃけん一生懸命お願いに行く。一生懸命参れと仰る。今度忙しゅうなったら尚更また参れと、だからこげん時油断しよるとおかげを落とすけんで忙しかばってん参らなこてと云うようなお参りではですね、形の上に尚参っても、それではおかげにならん。
今日の私の言うところの御教えが、ほんとに自分のものにならなければおかげにならん。「神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」そういうような信心を様々な問題、様々な事柄に直面する度にです、私は自然の偉大さと云うか、神様の心の大きさ、豊かさ、その豊かな神様でも夏を一変に冬になさることは出来ないと云うこと。時節を待っておかげを受けたがよいと、そこんところを私共、神様に任せきってそれを任せきって安心。いわゆる不安もなければ心配もない、いらいらもしないで済むところの稽古を、そこんところでなさせて頂くのです、ね。もうこれは絶対のことなのですよ。時節を待っておかげを受けることは絶対のもの。それを自分が不安に思うたり焦燥したり、いわゆる人間心を出したりするところに、おかげをそこから少しづつ狂うてくる。そして神様が下さろうとしておったおかげが似ても似つかないことになってくる。そういう例えばおかげを頂く為にもです、私共がいらいらせんで済む、不安心配せんで済む。ですから不安なら不安でいい、心配なら心配でいいからそこんところ、心配する心で信心せよ。心配する心で一生懸命させて頂いているうちにです、今日私が申しますところが、段々分かってくる。形の上に於いては椛目では、まあ幹部と云われる方ならば出来ておるですね、皆さん。けれども「親に孝行するも同じことぞや」と云うところになってくるとです、出来ていない。
私最近思うです。ほんとに信心がね、どのような場合でも迷わんで済む、狂わんで済む、動じないで済むところの信心を頂きたいなあと、そのおかげを頂く為には、神は吾が本体の親であると云うことを、本当に分からせて貰う。しかも信心に親に孝行するも同じことであると云うことを、いよいよ体験をもって分からせて頂く。なるほど親だなあ、親神様だなあと云うことね。心配なら一心にすがる。それがまあ、云うなら断片的におかげになってくる。なるほど神様だなあ、有難いなあ、おかげの上に分からせて頂くんだけれども、今度はそのおかげじゃなあと言われ反対ないような反対のことになってくると、それをおかげだなあと思いきらん。
先日久留米の佐田さんのところの遷座のお祭りがございました。奉祭式が、私が奉祭させて頂きました。家の方達が中心で、あちらの親戚の方が来ておられました。その晩北野の秋山さん夫婦で来ておられました。晩になりましたから帰られ、二つの単車で見えておった。ところがうっかりしてから、ライトをつけるのを忘れて十字路のところへ来たところが「あんたのところは明りがついていませんよ」と注意をされた。どうも済みませんと言って、明りをつけて通り過ぎることが出来た。ところが後から来ている筈のお父さんがやって来ない。それで又ひっくり返ってみたところが、調べられるところであった。ライトは勿論ついていた。だけれども運転免許を持っているかと言うて調べられていた。ふっと気が付いた。私は今日免許証を持って来ておらじゃった。広大なおかげを頂いた。私が調べられとるなら、大ごとだった。ライトをつけておらんことだけで、通して頂いた。お父さんは免許証を持っていたけれど、調べられたけれど、難なく二人で帰ってから、今日は広大なおかげを頂いたと云うのである。あくる日参って秋山さんがお届けされます。だから私は申しました。秋山さんそりゃ広大なおかげじゃあなかよと申しました。
椛目の方達はどうもそういうような傾向がある。堤清さん、運転免許を取られた、乗れない。運転免許をなか間どうぞひっかからんごとお願いして下さい。それは清さんは現在の清さんの信心では、それはそういう願いはなさいますまいが、また私もお取次はしません。けれどもこれは前の前の話なのです。お願いはしました。次の免許を貰うまで、やっぱり乗られました。けれども引っかかることもなく、おかげを頂きましたのです。けれども、それを広大なおかげだと言うておることではほんなことでじゃあないことが分かるでしょう。金光様の信心する奴だん、運転免許を持たんでん乗ってさるくとを信心と思うとるというようなことにあってくるんです。本当ですよ。わたしどん過去の信心はそうでした。人が五円で売ってることを五円五拾銭で売るとこがおかげだと思っていた。その代わり高く売ったものだけお供えする。そこで割り切っている。だから評判が悪かったんですねね、私の方は。そういう様なことを信心だと思って何十年間繰り返して来たから、そういそうようなことを皆さんに繰り返して貰いたくないのだねえ。
信心すりゃああそこの品物は間違いない。どこんよりも安い。そしてその商われる人達の心がいつもにこやかでサービスがいい。と言うことになってくる時に、あれほど信心しなさるけんやっぱりあの店は違うと云うことになって來るでしょうが。この頃私共或ことで福岡に参りまして、松岡さんところに寄せて貰った。何かこう美味しいんですねえ。だから私がありゃあ私が居行ったからやっぱ特別に美味しくしたんではなかろうかと、秋永先生に言いましたら、いいやそげんことはなかです。あそこは何時も美味しかです。何時も私が行ったら金を取らんからよそからでも近所のお得意のうちから、秋永先生も分からんなりに持って行く。ところが美味しいんです。しかも安い、美味しい。これならおかげ頂けん筈がなか。知ったものならば成程金光様の信心をしよるから、あれだけの事が出来ることが言えるのです。だから繁盛する筈なんです。その時がばっと儲っても後が信用を落とすようなことであっては出来んのです。
清さんは最近信心は申しました。以前はそうであったけれども、そういうところが段々信心が分からせて頂いた。先日、近所の方に清さんやっぱもう地獄極楽はこの世にあるとばい。誰か言わっしゃった。そん時私はですね、思わず知らず言ったことは、その時私は自分はそうは思わん。地獄極楽は自分の心の中にあるとですよと話していたら、話している自分が有難くなってきた。相手の人も合点がいかしゃったようですね。もうちょっと、それだけのことで私もおかげ頂いた。地獄極楽は自分の心の中にあるとですよ、そういう素晴らしいことが最近分かってきよりなさるですよね。秋山さんの場合でもそうなんです。見逃して貰った、引っかからんじゃったということが広大なおかげではなく、もう本当に私はこげん何時もろくそなかとじゃろう、実意がたりんとじゃった。単車に乗るときに例えば免許証を忘れるように自分がうかつであると云うことが本当に昨日ばっかりは分からせて頂きましたと、云うならば広大なるおかげであると、秋山さんと話したことでした。けれども私はここにもう一つ分からなければならんことは、そういうように手落ちがあってもです、そういう手落ちがあっても、みすみす自分で自分の心の中にもこげんなふうでは、おかげを受けられんことが分かっておっても詫びたり願ったりするからそこをカバーして下さるのは親神様だからなんです。自分の子供に例えば人から笑われる様なことが起こった時に、私の息子はこうじった、ああじゃったと云う者はおらんでしょうが。
世間では知れ渡っておってもそれを隠したいのが親心でしょうが。親神様でも同じこと。だから、親神様そういう私共の御粗末御無礼者であるものでもそれをカバーして下さろうとする様な働きの中からでも、成程親だな、親神様だなあと分からせて頂いておかげを受けるだけではなくてです、まして叩かれても親なればこそであると、分からせて頂いて成程、吾が本体の親でおありになるなあ、その親神様にいよいよ自分が力を頂きたいならばです、いわゆる神様を信ずる力をどの様な場合でも慌てんで済む、いらいらせんで済む、心配せんで済む様な力を頂きたいならば、「神は本体の親ぞ」と云うことが分かったのですから、次は「信心は親に孝行するも同じことぞや」と云う様な親孝行のいわば信心が出来て來るときに神様の御信用がつくであろう。神様が喜んで下さるであろう、その喜びがこちらの力になって来ない筈が無い。ね、お互いどんな場合でも、そこんところを辛抱出来る力を頂かせて貰う為にも神様は吾が本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じことぞや。高芝さんの例を取りました。秋山さんの例を取りました。清さんの例を取りました。ですから、それ以上の人の信心が出来ていると思われませんから、それ以下の私達であると云うことを、お互い分かって貰って、私共の場合、そういう時にどうさせて頂くことが親に孝行するとか云うことをひとつ分かって貰わなければいけない。
そこに私をおかげ中心であり、自分を中心であり神様を中心であると云うような信心が段階を追って出来る様になるようになってくると思うんであります、神様を中心にしたところの信心が出来るようになる為にも、どうでも「神は吾が本体の親である」信心は親に孝行であるというような「同じことであると云うような」信心が分からせて頂かなければなりません。
そこには迷いもなければ動じることもない。いよいよ不動のもの、そこには私共の上に不動の信念と日々を神様の守りの中にあるんだと、悪いことがある筈が無いんだと。それは信心のない人からみれば、悪いことにみえておっても、私としてはそれはおかげであると頂かしていただけるような信心が出来てくる。
この方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労させんと仰るように、どのようなことの場合でも喜べるんですから、喜びに喜びの花が咲いて実って行かない筈がない。そこでそういう内容を内容としてお互いが身に付けて行かなければならんと云う風に思うのでございます。 どうぞ。